長くも短くそして先へ

 昨年2021年7月に増築リフォームを決意し

まだ少々の手続きなどは残っていはいるが

本日の工事をもってなんとかひと段落。

かなりの長期間となってしまったが怒涛の日々であり

いま思えば本当に一瞬のできごとのように感じる。


増築リフォームした場所には手すりなど多数の補助器具が付いた。

まるで病院内のようにありとあらゆる所に。


以前、親が住んでいた2階への階段などにも

自分が取り付けた手すりなどがたくさんある。

最初は邪魔にならないのか

見た目が悪くならないのかなど

父親の体を優先しない思いも正直あった。


しかしながら実際に全て取り付けが終わると

意外にもしっくりとしておりバランスがとれている。

それに健常な者まで全員が無意識に利用しているのが面白い。


実際に先日の山遊びで筋肉痛となった時には

さも自分専用の手すりかのように使用していた。

たんなる筋肉痛ですら階段の上り下りが大変なのだから

体が徐々に不自由になっていく父親にはどんなにも

日々苦しみに耐えて階段の上り下りをしていたことだろうか。

脚が動かなくなっていく中、腕の力だけで上っていたので

両腕の激痛にも顔をしかめ耐え続けていた。


いまは杖2本だけでの歩行が困難になってしまったこともあり

車輪が4つ付いている補助器具を使用するようになった。

また病院内で移動できるように車椅子も用意した。


進行するにつれてどんどん補助器具が増えていく。

狭い敷地内のために置く場所にも限界があるが

その器具は生きていくためには絶対的に必要なもの。

しかしながら増えていくそれらを見ていると心は苦しくなる。


以前、ある方に教わった。


介護で様々な補助を受けるのは恥ずかしいことではない。

不自由になった本人を助けることはもちろんのことだけど

それを日々助ける周りの家族のためにも利用すべきもの。

周りの家族を助けるためのものでもあるのだから。


当時はまだ現在のように症状も酷くなく

なんとなく聞いてただけだがいまはそれが分かる。


本人が利用するしない云々もとても大事だが

当人を助けるためには自分たちにも助けが必要。

先に限界がきてしまえば助け支えることはできない。


最初は誰にも相談ができず

それどころか現実を受け止めきれず

ただただ考えることが怖く

真っ暗らな先しかなかった。


いまでも移動中に崩れ落ちてしまったり

こけて怪我をしてしまったり

動く度に、大きな物音がする度に、

神経をすり減らしてしまうけど

怖がってばかりでは先に進んでいけないことも

自分や周りに言い聞かせることが少しだけできるようになった。


昨日できていたことが今日できなくなっている。

時にはそんなことも目の前で起こる。


例えどのような状況でも

本人が自ら立ち向かい続けることに対しては

助けを求めるまでは見て見ぬふりを貫く覚悟でいる。


誰かに少しでも話すことで楽になったり

全く向いていなかった方向に助け舟があったり

本当に些細なことでもとても価値がある時もある。


そもそも自分の人生には全く関係のないと思っていた状況。

誰が想像するだろうか。

しかし残酷にも突然にやってくる。

それは自分自身かもしれない。

いまできることを1つ1つ越えて行くしかない。


まだまだ分からないことばかりだけど

経験してきたことくらいは伝えることができる。

聞かせることが無いに越したことはないけれど。


家族、友人、知人。

自分にとって大事なもの。

大切に。

そして自分自身も大切に。

これが1番難しいけど。


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